養老孟司さんの形を読む-生物の形態をめぐって-を振り返る(3/n)

さて、少し読書カテゴリのブログ更新に間があいてしまいましたが、前回記事 の続きとして、養老孟司さんの「形を読む」を振り返っていきたいと思います。前回は情報の伝達可能性(馬鹿の壁)についてや、構造・形態とはなにかといった説明がなされております。今回の記事では著書の第四章及び第五章を振り返っていきたいと思います。
形を読む – 第四章 – 対応関係—相同と相似
形を読む – 第五章 – 重複と多様性
これらが気になりましたら、ぜひ続きをお読みいただけましたら幸いです。
タコの眼とヒトの眼
ここでは形態学の主題である「対応関係」とはどういうことか、具体例をもとに説明がなされます。まず、解剖学ではさまざまな構造(この著書でいう「構造」の意味は 前回記事 を参照いただきたい)に、名前がつけてあり、どういった構造に名前を付けるかがまず問題となるが、一旦はすでに名前が付けられているものとして論を進めます。そうした時、その「名前・名称」がどの範囲まで通用するかが解剖学では具体的な問題であると言います。
ここで、「眼」という名前がついた構造について考察が進みます。タコの眼とヒトの眼を比較すると機能的にはとりあえず同じであるものの、タコの眼では、光受容細胞の位置が、脊椎動物の場合と逆転しているそうです(生物学の本を読むと大体書いてある)。タコの眼の光受容細胞はすなおに光の方を向くのに対し、脊椎動物では、光が入射する側ではなく、眼球の壁側を向いている。哺乳類では眼は網膜の血管も、神経細胞層も光の通路を遮る位置に存在している。脊椎動物は数千種あるが、そのいずれも、タコふうの網膜は持たないと指摘し、この場合には、常識的に、タコの網膜と脊椎動物の網膜は、起源がちがう、と考える、と養老先生は述べます。
さらに、タコの眼を、脊椎動物の眼と起源が異なるとするもうひとつの事情があり、それらが属する動物群の構造をていねいにみると、「両者が対応する位置にあるという論理が引き出せない」という点だと言います。眼そのものの構造に加え、眼の位置、周囲との関係が問題となると指摘します。タコでもヒトでも、眼はある解剖学的位置関係の中に存在、言い換えると特定の周囲の状況下にあり、その状況そのものがタコとヒトではまったく異なるそうです。よって、解剖学は周囲の位置関係を重視する点で、独特であり、脊椎動物一般が、一群にまとめられている理由は、つまるところ類似の体制を持つからだと述べます。「類似の体制」とは、身体を各部分に分解して考えた場合、それぞれが、他種の類似の部分と、互いに対応する(解剖学)位置関係にあるということである、と養老先生は述べています。
眼の周囲に存在する外眼筋と呼ばれる眼を動かす筋肉が、ほとんどの脊椎動物では同じ数だけ、ほぼ同じ位置に存在すると例示されています。さらに、その筋肉を支配する神経が3つあり、それぞれ脊椎動物間では対応するそうです。さらに、眼の周囲を囲む骨では、サカナからいきなり哺乳類に対応をつけるのは困難であっても、両生類や爬虫類を考慮すればある程度は対応することが知られているそうです。これを著書では、サカナの鼻と口の連絡がなく、鼻から入った水は、後鼻孔という孔からまた外に出ることに対し、ヒトには「鼻涙管」という涙が鼻に抜けるという、なんの役に立つのか、わけのわからぬ機能を果たす(養老先生の表現です笑)管があり、シーラカンスを含むような「陸に上がったサカナ」の仲間である総鰭類(そうきるい)まで遡れば、鼻腔と口腔が交通し、サカナにある「後鼻孔」がヒトでは不要になり、鼻涙管をつくるという例示がなされます。ヒトの口と鼻の連絡は胚の段階でおこり、それ以前の若い胚ではヒトでも鼻腔と口腔の間に連絡がないそうです。この鼻涙管のような構造の存在や位置から、サカナとわれわれの発生までの流れが一つにまとまることになると述べます。

実は、私は学生時代ラグビー部に所属していた時に、この眼窩底(加えて鼻の骨)を骨折して「複視」という症状になり手術してもらったので、読者のみなさんは鼻涙管とは何のことやらという感じだと思いますが、私個人は経験としてよくわかりました。術後に鼻をかむと、手術した眼窩と鼻と喉がすべて繋がっているもんだから、眼に激痛が走るんですよね。笑 インフルエンザの検査の時に鼻の奥に検査用の棒を突っ込まれると涙があふれるのは、これらに鼻涙管に関係があるのでしょうか。
ここまでで、養老先生は、解剖学的な対応関係が、サカナの眼とたとえばヒトの眼との間に、「眼の付属物まで含めて」、きちんと存在することに言及し、しかし、タコの眼とヒトの眼ではこのような関係は認められないとします。
相同関係
さて、脊椎動物という一群の動物では眼は起源を同じくし、これを「相同」と考えます。しかし、これは現在ではダーウィンの進化論の影響で「起源を同じくするもの」が相同という意味に捉えられており、進化論に批判的であったリチャード・オーウェンは相同を、(1)特殊相同, (2)一般相同, (3)順列相同 の三つに分けていると説明がなされます。養老先生は、本来は「相同」は、ある構造の「解剖学的な対応関係」を指していると主張します。「起源を同じくする」というのはしばしば実証困難な概念だとも指摘しています。
上記のサカナの後鼻孔とヒトの鼻涙管の例ような、「ある部分が別種の動物でたがいに対応する位置関係にある」という相同を「特殊相同」、以降に著書で述べられるような、同一個体内におけるくり返し構造、重複ないし剰余が、その構成要素においてはっきりした解剖学的対応関係を示すものを「一般相同(順列相同)」(養老先生は一般相同概念に順列相同を含めてよいとしています)としています。養老先生は、異種間にみられる、特殊相同と一般相同(順列相同)は意味がまったく異なると述べています。例として、昆虫には足が6本あるが、これもまた、基節、腿節、脛節、付節という、類似の構造を順次示し、左右に「くり返される」上肢や、左右に五回ずつ「くり返される」各指もまた、こうした順列相同に含まれます。これらは、あくまで個体内の相同を意味しており、たしかに特殊相同と一般相同及び順列相同は意味が異なることが理解できます。養老先生は、ダーウィンの進化論以降、「起源を同じくする構造」と捉えられた、この「一般相同」の意味を深く考える人は、ほとんどいなくなったものの、形態学の基本的問題であることに変わりはないと断言し、問いを投げかけます。
つまり、なぜたとえば、手と足とは、同じ型の骨の配列をもつのか。その配列は、歴史的には、すでにおそらく、陸上にあがった総鰭類の時代いらい、三億年を経ているが、なぜそれほど安定しているのか。いったい遺伝子は、そういう骨の配列を決定しているのか。しているとしたらそれはどんな遺伝子か。むしろ現代の遺伝学の成果は、そうした性質を遺伝子が一次的に決定することについて、否定的ではないのか。二次的だとしたら、遺伝子と、このような表現型の間に、いかなる経路をはさんで考えたらいいのか。遺伝子が変化しても、こうした性質は、きわめて変化しにくい、安定したものらしいが、それはどうしてか。
このような問題が、古典的な一般ないし順列相同に関して、いまだに残されたものと考えてよいだろう。
養老孟司. 形を読む 生物の形態をめぐって (講談社学術文庫) (p.111-112). 講談社.
一般相同(順列相同)は構造上のくり返し(剰余性)を示すものである、と養老先生は述べています。これらが、オーケンやゲーテに代表されるような頭蓋骨の椎骨説を生み出すことになったと指摘します。この記事では詳細を割愛します。
具体的な対応関係の検討
さて、ある名称のついた当該構造と、その解剖学的位置関係等の周囲との関係も考慮して、対応関係を置くことが、私が誤読をしていなければ、上記までの内容でした。ここで養老先生は、さらに血管を具体例とし、大分省略していますが、たとえば血管の経路がある人では靭帯の下を、ある人では靭帯の上を通っていたような場合を考えます。つまり、周囲との位置関係は、本来なら同じと思われる血管でも、違う場合がある。このような場合、同じ動脈としてよいか?一般的に、このような場合には、この2つを区別しないと言います。例外を基準とすることはできないため、たとえば動脈ならその流域によって、動脈の名称を決定するほうが実用的だと述べます。
以下、一見地味な記述のようですが、養老先生の方法論を読み取る視点からは重要かと思われるため、引用させていただきます。
ある解剖学的な構造が、他の解剖学的構造と同じであるかどうかは、経験的な判断を必要とする。そうした例証を積み重ねながら、解剖学の歴史が過ぎてきた。そして、その同一性あるいは対応関係は、たとえば筋肉の場合、しばしば厳密には決定できない。
養老孟司. 形を読む 生物の形態をめぐって (講談社学術文庫) (p.121). 講談社.
ただ、解剖学者(形態学者)は、静脈よりも筋肉、筋肉よりも神経、といった経験的な信頼性の基準を持っているとは述べられています。ただし、絶対的な基準でも論理的な基準でもない。と養老先生は言います。私は、この辺りを読んでいて、第一章で述べられているような、「客観的事実」というものが、結局は主観を、しかも当人の経験による視点の選択を含んでいることを養老先生は暗に「くり返し」示しているのではないかと思いました。
相似あるいは類比
ここでは相同に対立する概念として、相似あるいは類比、つまりアナロジーについて扱われます。相似あるいは類比とは、本来全く違ったもの、進化的相同概念でいえば、起源を異にする構造が、よく類似した形態を示す場合のことを指すとしています。典型的には相似を生じるのは、「機能の要請」であり、サカナとイルカと魚竜では、水棲に対する適応として、陸棲動物よりも、たがいに体系が類似し、相似が極めて著しいものを、「収斂」というと述べています。
ここで、形態学者は、相似は単に外見が似ているだけで、いわば偶然であり、本質的な意味はなく、相同概念のほうが偉いという感覚をもつのではないかと指摘し、それが誤りであると断言しています。なぜなら、相似は「同じ機能を前提にすれば、しばしば同じ形態を採用せざるをえない」ことを示しており、相似にみられる「構造の一致」こそ、典型的な機能形態、すなわち「機能が形態を決める」例として重要であると主張しています。
ここでさらに相似概念を延長し、神経系のお話に移ります。類比(アナロジー)という概念は一般的に用いられるものです。養老先生は、神経系は外界をその中に取り込んでおり、それがまさに外界の類比だと述べます。この辺りは自分の見えている世界を言わば客観的に考えた経験がないと難しいですが、著書では、木を眺めることを例に、木が神経系を通して頭の中に入っているが、それは木そのものではなく、なんらかの「形」で頭の中に入っており、その形こそ、アナロジーだと述べられています。この頭の中の「木の形」は、外界の木とはまったく違った素材でできており、かつ、保存されています。これがアナロジーだと言います。したがって、外界と神経系の間には、なんらかの「相似」があるはずだと断言されています。
養老先生の主張では、「外界の構造」と、「神経系に取り込まれた外界という構造」の間には、ある種の「対応関係」、すなわち相似的な「構造の一致」があるはずで、しかも、神経系の大きな部分はこうした「外界との対応関係」をつくるために、発生してきたはずだと断言しています。
まったく無関係と思われるものの間にも、機能の一致によって「構造的対応関係」が発生する。それが、相似の意味である。そして、それは、われわれにとって、きわめて重要な、さまざまな実際的意義をもっている。
養老孟司. 形を読む 生物の形態をめぐって (講談社学術文庫) (p.126). 講談社.
この相似あるいは類比概念の説明を見ると、第一章で述べられていた、「自己と客観」のような考えにいたった流れがなんとなく読み取れて面白いです。いままでも無批判に養老先生の文章を引用させていただいておりますが、私も結局、「考えているのは自分だ」という主張にはまったく同意です。実証主義者の実証も、一旦は類比によって当人の頭の中に入れて解釈する必要、もしくはそうした前提があるとは思います。
重複と多様性 – 剰余が多様性をみちびく
第五章では、剰余と重複、くり返しについて扱われています。生物の大きな特徴が多様性であり、形態学はその多様性を扱います。よって、その多様性の前提となるものはなにか、考察がなされます。
多様性の前提として、剰余性という概念の導入がなされます。要するに、余り、具体的には重複のことだと言います。ムカデやミミズの体節を例に、同じものが、多数並んでいればいるほど、さらに、並んでいるものが似ていればいるほど、剰余性が高いといいます。多様性との関係でいえば、生物は自分を保存しながら、かつ多様化したいと思えば、まず重複を作るしかないと述べます。そして、重複の中から適当に一部を変化させ多様化する戦略を生物はとってきたと考えられるとしています。たとえば遺伝子の複製のように、それぞれ相手を作る鋳型となりつつも、片割れが自己保存するように、同じものをいくつも作っていれば、そのうちどれかが、偶然変化したとしても、自己保存の原則には反することなく、偶然変化したものもまた、自己保存しようとする。よって、重複が多様性の基礎になっているだろうと述べています。遺伝子の重複が原核生物から真核生物への進化に、一個体内に細胞が重複したとき、単細胞生物から多細胞生物への進化が、基礎をおかれたことになるとしています。
ここで、わたしたちのヒトの発生の最初期に、「卵割」とよばれる現象がおこることも、要は、受精卵の細胞への分化の前提としての剰余、ないし重複、が著明に表れていると述べられています。(著書にはヘッケルのカエルの受精卵の卵割図が掲載されています。生物の教科書に載ってるやつ。)
そして、さらに養老先生は剰余の例をあげます。それがヒトの脳だと言います。これは動物の脳が持つ部分を、犠牲にして成長したものではなく、動物の脳に剰余が付け加わったものであると指摘します。付け加わった部分は特に新しいわけではなく、やはり余分が増えたものだと言います。しかし、その剰余が人間の文化を生み出した。
こうしてみた場合、構造に関する剰余性は、進化の決定的段階に、かならず関係している、と考えてもよいのではないか。と問いを投げかけます。
構造の剰余
動物の中でとくに発展した節足動物および脊椎動物が、同じ体制を採用していることに着目し、これらは左右対称形を示し、頭部と尾部の区別を持ちます。まず、この左右対称体制の発達が進化上で重要な段階であったと思われると述べています。頭と尾の区別によっては、一本の軸を定めることが可能となり、必然的に左右が生じ、結果的には左右対称体制を導きます。養老先生は、これを左右への重複と考えているように読み取れます。動物によって、全く違う対称性をもち、ウニやヒトデのような放射対称があることの説明がなされ、養老先生は、それを剰余、重複の観点からみると、対象軸の数だけの構造の重複が可能になることを述べています。
左右対称型の重複では、左右方向については一つ(対)の重複であるのに対し、頭尾方向に関しては多大の重複(ムカデ等を例に)が許されていると指摘し、節足動物及び脊椎動物はこの体節構造を示し、頭尾方向は同じような構造の体節が多数配列すると述べます。この体節構造はヒトの体になると体節構造(脊椎骨や肋骨)に名残をとどめているにすぎないが、胎生期には体節はきわめて著明であり、その体節を基本に、さまざまな構造を作り出していくことが、われわれの発生の大部分を占めると述べています。
ここまで長々と記載してしまいましたが、体節は脊椎動物の体の形態を決定づける上で極めて重要な構造であると思われたため、養老先生のその構造の見方を含めて記載しました。
剰余性の統御
ここでは生物のもつ経済性の観点から、剰余はふつう節約の対象にされることの説明がなされます。
例として、(1)眼の場合, (2)四肢の場合の二つの場合について、節約・統御の具体的説明がなされます。
眼の場合
眼は左右に二つだけではなく複数ある場合もあり、セミはその典型であるそうです(セミを捕まえたことがない方は、左右の眼の間に他に眼があることを知らないかも知れません)。
ニュージーランドのムカシトカゲは、恐竜時代以前の爬虫類の生き残りで、松果体の前身である眼を対象軸上にひとつ、不対称にもっており、それは水晶体と網膜をもつれっきとした眼であり、多少の光受容機能があるそうです。ただしこの松果体の前身である余分の眼は、節約の対象となり、脊椎動物の松果体は、哺乳類ではまったく眼の機能をなくして、内分泌器官に変化してしまったと養老先生は述べます。これが、多くの剰余器官が、典型的に節約の対象にされるか、他の器官に転化するかを示しめす例となります。
では、現在のわれわれのような眼はどうだろうかと考えます。左右にある眼は、下等動物では、あきらかに視野の確保につかわれている。脊椎動物でも、サカナのようにあきらかに左右の視野の確保に使用されているし、ウサギでも両眼の視野はほとんどが重ならない。しかし、脊椎動物でも視野の重なりが生じているものもあり、その典型にヒトやフクロウをあげています。よって、フクロウは妙に人間らしく、子供が親しみやすく、童話によく登場すると述べられています。
両眼の重複を避けた場合には、視覚情報は量的に大きい。対して、両眼視によって得られる情報は、たとえば物の奥行を知覚するように、質が異なる。じっさい、ほとんどの動物は、二つの片眼による視野の拡大と、両眼視の併用をしていると指摘しています。ここで、読者として面白かったのは、養老先生はこのあとに、「眼が二つ発生する理由を、私は知らない」と述べている点です。よくよく考えてみると、たしかに。と思います。笑
機能と構造の考え方が整理されていないと、こんなに柔軟に機能面と形態面から対象を見れないし考えられないだろうなと思いました。私の認識が間違っていなければ、上記の例はあくまで眼の機能面から見た剰余を述べているのでしょう。養老先生は、胎児に生じる奇形の単眼症を例に、眼は、形態形成上は、一つでもよいことを表すようにも思われるが、ほかにも理由があり、二つあると考えざるをえないと述べています。
ここまでで眼が剰余であるかないかは明瞭で、剰余ではないと養老先生は断言しています。三つ目の眼は造ってはみたものの、しだいに消失傾向が生じたことも付言されています。
四肢の場合
まず、陸生の脊椎動物のばあい、足が二対、四本あり四肢動物という。肢が二対ある(二本ではないです)というのは、重複だといいます。以下説明がなされます。
四肢の機能は、位置移動、ロコモーションであり、ヒトの場合この機能は後肢だけに限定されています。二足歩行の起源ではなく、こうしたことが生じた前提はなにかと考えが進みます。
ヘビは足を省略してしまっている。イモリやワニなど、徹底的に四足歩行の動物もあるが、恐竜のように一見すると手が余ったものもあると例示します。後にトリが生じた。哺乳類でいえば、コウモリの前肢が翼に変わっている。よって、養老先生は、位置移動に関していえば、後肢よりも前肢の方が、あきらかに剰余性が高いと述べます。ヒトに器用な手が生じたのは、直立二足歩行を採用し、位置移動手段としての、前肢が余ったからであり、同様に、コウモリで手が翼に変わったのは、倒立を採用し、手が余ったからであると述べます。したがって、養老先生は、そうした剰余性が、前肢の分化の前提になっただろうと述べています。
この後、哺乳類で特異な体型を示すカンガルーを例に、胎生時の前肢の発達について述べられていますが、非常に面白いので、本書をぜひとも読んでいただきたいです。
この記事はここまでで切ります。ではまた。




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