養老孟司さんの形を読む-生物の形態をめぐって-を振り返る(4/n)

さて、読書カテゴリの更新間隔があいてしまいましたが、養老孟司さんの形を読む – 生物の形態をめぐって の振り返りをブログに記載していきます。当初は3記事くらいに収める予定だったものが、かなり長くなってしまったため、一旦前回までの記事を下記にリンクさせていただきます。
前回までのあらすじ
⓵ 養老孟司さんの形を読む-生物の形態をめぐって-を振り返る(1/n)
⓵では、主に、自己と客観について述べられている。近代の諸科学は客観主義をとるが、それを考えているのは自分である。客観主義が真であれば、解剖学はまったく意味がなくなるだろう。近代諸科学の客観主義的な態度は対象を観察する「自分」を隠蔽する結果を意図せずに生み出した。また、形態学は、ヒトが行うものであるから、感覚のなかでも主に視覚に依存するだろうと予測でき、外界と自己との間に、おもに視覚をもちいて対応関係をつけることが形態学だと述べられている。また、形のあつかいにおいて、ある特異点を徹底的に観察していくと、その特異点以外のピントがなんの操作もなくボケることを著者は警告している。
⓶ 養老孟司さんの形を読む-生物の形態をめぐって-を振り返る(2/n)
⓶では、対象を見る方法、表現する方法について述べられ、レオナルドダヴィンチ等の人物が、例として登場する。そして、対象と自己に対応関係をつくり、それを伝達する方法と伝達可能性について述べられている。これが、ベストセラー「バカの壁」のはしりである。そして、形態の構造について定義付けがなされている。構造とは輪、輪廻であると著者は主張している。人体の細胞は絶えず入れ替わっているが、ある人物の顔が経時的に見ても「同じ人の顔」だと理解できるのはその恒常性のためである。しかし、実際に中身は入れ替わっている、構造とはそのような輪廻である。
⓷ 養老孟司さんの形を読む-生物の形態をめぐって-を振り返る(3/n)
⓷では、具体的な生物の形態をめぐって、相同と相似の概念が説明されている。これは、後に記事にする予定であり、養老孟司さんの名著である、「唯脳論」の前提として重要である。唯脳論はアナロジー、すなわち、基本的に類比・相似について記載されているためである。相同概念も具体的に、一般相同、順列相同、特殊相同について説明がなされている。そして、続けて生物の形態を例に、剰余、余り、それによる重複(くり返し)が前提となり、生物の多様性が生まれているのではないかと主張している。生物の重要な進化の段階で、事前に剰余が生まれていることをくり返し指摘する。
形態学の意味付け
さて、今回の記事では、著書の第6章以降について記載します。いよいよ形態学の意味付けが行われます。一読者の私個人としては、これは、解剖学に対する解剖、すなわち、形態学を行う側の、視点の分類なのではないかと感じる部分も多々あり、その視点で読めば、何を言っているのかわからなくなることはないかと思われます。
形だけを扱う
まず、ここでは純形態学の歴史について説明されます。血液循環の原理の発見者として有名な、十六世紀の解剖学者であるウィリアムハーヴェイを例にしています。現在は循環をあつかうのは生理学ですが、ハーヴェイは解剖学と生理学がまだ未分化だった頃の人で、自身を解剖学者だと認識しており、ハーヴェイの時代の後に、純形態学、先験的形態学が出来上がったと述べます。その歴史のなかで、フランスの比較解剖学者エティエンヌ・ジョフロワ・サンティレールが登場します。この人物は、ダーヴィン以前の進化論者で、彼は、動物の形態を統一的に理解しようとし、すべての生物は唯一の基本設計の上に作られるという主張を展開したことを説明します。
ジョフロアは、
⓵あらゆる生物が同種の構成要素からなる、
⓶それらの構成要素の組み合わせ方、つまり設計は同じである、
と考えたようです。これは西洋哲学史から見れば自然な考えであり、あるイデアが現実に投影されたものが、それぞれの生物という存在である、という考え方です。これを、アメリカの哲学者、アーサー・O・ラヴジョイは「充満の原理」と呼び、ジョフロアはそれを補強し、アリストテレスが「自然は跳躍しない」と言ったと伝えられている考えにも通ずるような、「連続の原理」を置きました。養老先生は、十九世紀の博物学にとって生物界は、この充満と連続の二つの原理を軸に進み、それを満たすものとして考えられたと説明します。後にこれが、ダーウィンの進化論につながります。
つまり、ジョフロアは、読者の私は顔も知りませんが、基本の型、原型を追求した人間のようです。それを極端にも、すべての生物に当てはめようとしたので、議論は面白いことになると養老先生は述べています。
一方で、ジョルジュ・キュヴィエは、ジョフロアの論敵であり、基本の型、原型、つまり、動物体の基本設計の統一を否定しなかったものの、すべての生物とはせず、動物をたがいに基本的構成の異なる四群に分けたと説明されます。それが現在の脊椎動物、節足動物、軟体動物、放射状動物の四群です。対して、前述のとおり、ジョフロアは、すべての生物を統一的に理解しようとしました。これが有名なサンティレールとキュヴィエの論争だそうですが、読者の私は、よく知りませんでした。笑 これはやはり、キュヴィエのほうが旗色が良かったことは、多くの史家がみとめていると養老先生は説明します。
「原型」の概念の成功例
やがて、「原型」という概念は、「共通の祖先」という、類似、かつ、より実態的な観念に置き換えられることになります。では、共通の祖先とはなにか。そういうものがあると認めたとして、解剖学はどこがどう似ていて、祖先型をどう変化させれば現在型が得られるのかまで、確定する必要があると述べます。養老先生は、その成功例が、鰓弓さいきゅう血管であると述べます。
鰓弓血管を原型と捉えると、系統発生における血管の形態の変化や、ヒトの血管の生じる発生異常(奇形)など、脊椎動物における大血管のようすを、原型からの変異として、すべて説明可能であることを述べます。ただし、ここで問題となるのが、鰓弓血管が実際に現実に、祖先の型であったと説明することはできない、という点であることを指摘します。なぜなら、血管は骨と違い、骨に空いた穴は別として、まず残りようがないからだといいます。よって、上記のような例が様々な動物に適用できるとしても、それがただちに真実であるとはいえないとも述べます。ただし、生物はきわめて複雑で、ここまで多くの材料を整理できる仮説は無いとも述べています。これが、「原型」の概念として、成功した例になります。
別な表現をすれば、右の模式図は、比較解剖学が発見した、経験的な公式である。この公式は、現実に存在する、さまざまな動物の大血管を具体値としてもち、さらに、いくつかの奇形を予想値としてもつ。この公式が、もし他の定理系から導かれるようになれば、もうすこし別な形態学が開かれるであろう。それまでは、この公式は、経験則として、保存しておくほかない。
養老孟司. 形を読む 生物の形態をめぐって (講談社学術文庫) (p.156-157). 講談社.
さて、上記の例として述べられている鰓弓血管によって、何かほかに考えられることはあるかと考えます。そこで養老先生は、哺乳類が左大動脈弓で、爬虫類や鳥類が右大動脈弓であることは、哺乳類の祖先が爬虫類であると考えにくくなる要素だと指摘します。一般に爬虫類が哺乳類の祖先である、と言われるのは、現生の爬虫類とは異なり、左優位の大動脈弓をもっていただろうと予想しています。よって、現生爬虫類から、哺乳類を導くことはできないと述べています。
さて、ここまでで、歴史的な視点に戻ると、「原型」という観念に、もし問題があるとすれば、それは、原型はつねに、すべてを含まなくてはならないという点だと指摘します。しかし、進化は、多くの新しい性質を生んだ。古典的な比較解剖学の模式図はその点に最大の欠陥を持つと、養老先生は指摘しています。それはすでに完成したものを記載する方法であり、予測するものではないからであると述べており、これが、学としての勢いを失ったのは、こうした完成型のみを扱う態度を示すことで、閉じた学問体系になったこともあずかったのではないかと推定しています。
数学的な形の取り扱い
解剖学の初期に、ニール・ステンセン(ステノ)というデンマーク人がおり、この方は、
「心臓をよく、太陽であるとか王であるとかみなして、重視するが、よく調べてみればそれは、筋肉以外の何物でもない」
と言ったそうです。養老先生は、ステノの思考は明らかに機械論的だったと述べています。実は読者の私は、別の本でこれと文脈は違いますが、ステノの言明と似た表現を目にしたことがあります。それが、渡辺正峰さんという方の書いた、「脳の意識、機械の意識」という本の中で紹介されていた、かの有名なフランシス・クリック(DNA二重螺旋構造の発見)が、後の意識研究で述べた、
「あなたはニューロンの塊にすぎない」
という一文です。これは、意識を生み出す脳はどんなに調べても神経細胞の塊にすぎないんだという事実と、そこから意識という複雑なものが生まれてくるという畏怖の念を、二重に表す表現だったと紹介されています。
先に述べたように、私個人としての考えでは養老先生の「形を読む」は、解剖学の解剖、視点の分類だと思っており、やはり人は同じような視点(機械論なら機械論的視点)を取るのだろうなと思わされる読書体験でした。もちろんフランシス・クリックは構造的・機械的視点の人物のようだと予想できます。
さて、上述のステノは、筋の作用は腱ではなく、筋繊維にあること、また心臓には筋以外の何物もないことをよく知っており、筋が収縮時に体積を変えるかに興味を持ち、筋繊維を平面六面体とみなして幾何学的に議論を進めたと説明されます。これは、後のダーシー・トムソンの議論に甚だ近く、ダーシー・トムソンの思考について説明がなされます。
ダーシー・トムソンは、形態学を数学の上に基礎づけようとした典型的な人物として紹介されます。彼は、さまざまな生物の形を、デカルト座標の中に置き、どれかが基本形と考えるなら、他の種や、胎児の成長は座標のゆがみとして理解できると考えたようです。ただ、養老先生は、実際にこうして生物の外形を座標のゆがみとすると、座標の違いははっきりしているが、それを生物学的な言語に置き換えなければならないことを指摘し、ただ、面白いで終わってしまうと述べています。トムソンは、構造を力学的な面からも扱おうとしたことも付言されています。
養老先生がトムソンからヒントを得たと述べているのが、イルカの頭蓋の非対称性についてで、イルカの頭部の非対称性を示すもので著しいものがイッカクだといいます。イッカクの雄は右の歯が一本だけ大きく伸び、この歯・牙は左巻きのラセンを巻く。

by W. Scoresby. 1820. P. 588, Vol. II. Plate XV. Library Call Number G742 .S42 1820.
リンクによる
頭部の構造はたいてい左右対称性を示すために、養老先生はイッカクの奇形であるニカクの左右の生じた牙がいずれも左巻きのままであることに疑問をもったそうです。トムソンはそれを、イルカは水中を泳ぐために身体をくねらせる。その際に、頭から尾に向かう波を生じてその反作用で前進する。この反作用として、イルカの体を軸のまわりに回そうとする回転モーメントが生じると記載しました。ダーシー・トムソンによって、水中でのイルカの運動という、機械的外因によって牙の非対称性が説明されたことを述べ、それが養老先生自身の疑問を解決するヒントになったこと、おそらくは有力な説だろうとも述べられています。(今は否定されているかも知れません。)

ほかに形の問題を数学であつかう人物が紹介されます。それが、ルネ・トムと、マンデルブローです。トムは発生期の生物の形を数学的に取り扱うことを考えた人物で、彼の数学はトポロジーです。これを含むものは、おそらく書物で「カタストロフィー理論」として製本されています。養老先生は、トポロジーを扱う能力がないので、と省略していますが、トムの記載した「実験家と理論家との対話」をとりあげています。
マンデルブローはフラクタルの概念で著明である数学者である。養老先生は、彼がその中で、気管支の分岐や血管の幾何学について触れ、養老先生はこれを、頭蓋の縫合のフラクタルとして応用したと述べています。
これもこの著書から外れますが、ブノワ・マンデルブローは変わった人で、数学者の伯父は、ブノワがあまりに変な研究テーマの話ばかりするので、頭にきて研究室のゴミ箱から「これでも読んどけ!」と投げつけた紙が、言語学者ジョージ・キングズリー・ジップの論文で、そこから独力で博士論文を書き上げたと記載されており破天荒さが非常に面白かったです。「ウォール街の物理学者」という本に記載されていました。
養老先生は、生物に興味をもつ人は数学に興味と能力がなく、一方数学に興味と能力がある人は、生物に関心がないことが、こうした数学的な生物の取り扱いがなかなか一般化しない理由ではないかと述べています。以降、機械としての生物の取り扱いについて述べられていますが、養老先生はこれは数学的な見方に含めてよいだろうと述べています。
機械としての構造
生物は機械か
さて、生物を機械として見ていた典型的な人物は、以前の記事にも登場した、レオナルド・ダ・ヴィンチであり、もう一人、例として、ド・ラ・メトリが紹介されています。ド・ラ・メトリは、
「人間はきわめて複雑な機械である」
「人体は自らゼンマイを巻く機械である」
と述べているそうです。これらはニュートンの機械論的自然観の影響を受けたものかはわからないが、生物学にも大きな影響を与えていることを指摘します。
養老先生は、生物を機械的にみることの具体例として、骨の海綿質の部分の骨稜こつりょうの走行が、力を受けた材料中に生じる、応力を図示したものと酷似することを示したクルマンの研究をあげています。クルマンの研究では、ヒトの大腿骨の輪郭に類似した梁の輪郭を与えたものに、ヒトの大腿骨が受けると思われる負荷の、方向と値を加え、そこに応力線を描いてみると、なんとヒトの大腿骨の海綿質中の骨梁の走行と、モデルの応力線の走行は、見事に一致することを示した。これが今日では、バイオメカニクスのはしりとなったと養老先生は指摘します。
この例の前提は、骨は最小限の材料で最大の強度を出す、というものであるとも付言しています。
こうした、機械論が意味することは、えてして見逃されやすい。もし、ある条件下で、ある力学的結論に一致した構造を、生物体が示すならば、その構造は、「それ以外の形はとれない」ことを意味しているのである。なぜなら、前提となる条件が、その形を一義的に決定しているからである。それがどうして問題かというと、それなら、たとえば、生物体には、状況による選択の余地など、ありえないからである。
養老孟司. 形を読む 生物の形態をめぐって (講談社学術文庫) (p.175). 講談社.
さて、ここで、生物が機械だという考え方にも違いがあり、養老先生は、自身の立場は「機械は人間の一部」だと考える立場だと主張しています。その例として、エルンスト・カップが登場します。カップは、「機械または道具はヒトの身体の投射だ」という考え方の人で、ヒトの身体と、機械の間に並行関係を探す。人間が設計する橋は、重量を支えるものとしての骨と、似たような構造をとる。あるいは、海底電線のケーブルは、末梢神経に似た構造を示す。現在の電子計算機が、ヒトの脳の機能を一部代行することは、もはや否定しようもない。
これは私が個人的にTwitterで見つけて面白いなと思ったことですが、アップルのスティーブ・ジョブズは、ヒトの移動効率は徒歩では動物の中で遥かに劣等であるが、自転車に乗ると移動効率がコンドルをも凌駕する、それに衝撃をうけて、「パソコンは脳の自転車」と広告を打ったと知りました。これは、今回の記事でいえば典型的に機械論的な見方なのではないかと思い、とても面白かったです。つまり、ジョブズは、パソコンは脳の機能の一部の代行、あるいは増幅することを認知していたのでしょう。
ここで養老先生は、ヒトは意識的にか無意識的にか、ヒトの身体を模倣し、機械はヒトの一部であって、それ以上のものではない、という立場を明確にしています。さらに、ヒトの一部が機械であると考えれば、当然機械を生物と同じように観察できることも主張し、機械とヒトとの異同を述べる人は、実はその素材について考えるのではないかとも指摘しています。
素材の違い
養老先生は、上記のような指摘はするものの、素材の違いを無視するわけではないと述べ、機械とヒトとの素材の違いを示す例として「筋」をあげています。機械論的見方が発達してきて、骨に続いて発展したのが筋である。ここでヒトの筋のおかしな点を養老先生は指摘します。筋は、使用によって発達する性質を持つことを前提にすると、筋は、使用を感受し、記憶しなくてはならない点です。そんな機能をもったものはどこにもないと養老先生は指摘します。
さらに、生理学で述べられるホメオスターシスは、さまざまな機能が働くとき、形は一旦変わるが、機能が一巡すれば、また、「もとの状態に戻る」。これによって、人体は様々な定常状態を保っている。定常状態を保つ働きこそ、ホメオスターシスである。
心筋を例に、心筋も一度収縮したあと、「もと」の状態にもどる。しかし、高血圧の人は心筋が肥大するという。心臓に負担がかかるからであるという。ではなぜ、負担がかかると肥大するのか、これが疑問ではないかと養老先生は指摘しています。
ここではゴリラを例に、筋発達による、頭骨の構造の違い(ゴリラの頭のとんがりは咬む筋肉の発達による)をあげています。ゴリラの頭のとんがりは、筋肉の発達と関連している。こうした咬む筋肉の発達は生後に起こり、これらの筋の発達が使用によって影響されることを疑わせると述べます。なぜなら、生まれなければ咬まないし、生きているなら食べるために咬むからです。すると、この「咬む筋肉の発達する傾向」は遺伝によるものなのだろうかと論をすすめます。そのように考えていくと、使用によって筋肉は肥大すると仮定すると、反対に、筋肉は「もと」に戻っていないことになることが見えてきます。筋肉を使用した形跡がなければ、この考えでは、筋肉の肥大は起こらないはずであり、すると、やはり、筋肉には、何らかの記憶装置が存在しなくてはならないことになります。
よって、「なにが遺伝するのか」は実はかなり複雑な問題であることを指摘しています。典型的に機械論にみえる筋肉でさえ、素材に注目すると、このような生物としての特性があることを示しています。
さて、ここまでで、今回の記事も切りたいと思います。全然まとまっておらず申し訳ありません。残り2記事で、養老先生の形を読む – 生物の形態をめぐって のまとめとしたいと考えております。ここまで駄文をお読みいただき、誠にありがとうございました。ではまた。



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