養老孟司さんの形を読む-生物の形態をめぐって-を振り返る(2/n)

さて、前回の続きとして、養老孟司さんの「形を読む」で述べられていたことを私なりに要点をまとめてみたい(全然まとまってなくて申し訳ないです)と思います。
形態学の方法
前回までの著書の記載では、科学はまず「自分」と「対象」があると前提をおき、次にその両者の対応関係をつけること、それが自然科学の基礎だという内容でした。この話をさらに進め、自分が対象を「見る方法」について、具体的説明がなされます。たとえば、顕微鏡の種類、倍率、対象を固定する方法、なぜ固定するのか等の説明です。これらは具体的方法であり、知識としては面白いですが、このブログの「唯脳論」の前提となっている「形を読む」の振り返りという文脈からは外れてしまいそうなので、今回は割愛します。そして、ヒトを限界まで細かく見る極微の世界になると、同じもののくり返しが多くなり、一つの方向として、形態学が極微の世界に向かって行きつく先は分子だと述べられています。
もう一つの方向は、あいかわらず、肉眼で観察することである。しかし、顕微鏡を使おうが使うまいが、結果を最終的に、肉眼で観察することには、ちがいがない。観察されたものは、言葉および画像(すなわち図ないし写真)によって表現されることになる。
養老孟司. 形を読む 生物の形態をめぐって (講談社学術文庫) (p.52). 講談社.
「見る方法」の次は、それを「表現する方法」の話になります。形態学を表現する方法として養老先生は「画像」と「言葉」の二つをあげています。写真のない時代には画が重要であり、古くから人体解剖は行われていたものの、レオナル・ド・ダヴィンチの登場まで、その記録が不十分であったと述べています。なぜなら、図が書けないと、対象の構造の記録を残せないからだといいます。よって、絵画技法の確立が先決問題であり、かつ、キリスト教の世界を絵画にあらわすのではなく、人間の住む、このあたりまえの世界の、絵画による表現の確立が必要だったと述べています。
レオナルドは、
「盲人に語るのでなければ言葉で伝えようとはするな、ことばは自明で本質的なことを語るのみにせよ」
「文筆家よ、ここの画像が示すほどに完全な姿を、ことばで言い表すことができるというのか」
と、ノートに書いているらしいです。こうした表現から、レオナルドが画像がことばに優越していると考えていたことがわかります。なお、この時代にはまだ、対象を固定する方法の確立はなされておらず、死体が腐らないうちに解剖を行わなければならず、ミケランジェロは、ひどい臭いのためにとうてい解剖を続ける気にはならなかったという話が差し入れてあり、非常に面白いです。養老先生の暗喩なのかは定かではありませんが、それはすでに腐敗してるやんけと思いました。笑 当時の画家にとって、解剖は必修のものだったそうです。
形態学と言語
さて、レオナルドが指摘したように、対象を目で見たものを言語で表すのはなかなか難しい作業です。しかしながら、形態学は、視覚的事実をことばの世界に断固うつしかえようとすると養老先生はいいます。それが「記載」であり、そして、最良の記載は、ことばを読むことによって、現実が「目に見える」はずのものであり、もし徹底的に優れた記載を行う人がいれば、その人は、自分の記載から画像を追放しようとするだろうと指摘します。
養老先生は、「伝達」に関して、ことばより画像が有利なことが多いことは認めています。しかし、ならばなぜ形態学は解剖学用語を作り出し、それを各国のことばに翻訳してまで保存し、実物、すなわち、標本で済ませなかったのかと考えを巡らせます。
ことばの世界を、視覚的な物体の世界と対応させるために、解剖学用語がある、ということは、ことばの機能の大切な一面を示す。われわれが、あるいは忘れがちな言語の機能の一つが、ここにある。
養老孟司. 形を読む 生物の形態をめぐって (講談社学術文庫) (p.65). 講談社.
くり返すが、日本語でいちばん忘れられているのは、伝達のみではなく、現実を表象し、その代替物として利用できる、という言語の機能であろう。
養老孟司. 形を読む 生物の形態をめぐって (講談社学術文庫) (p.65). 講談社.
これはくり返されても難しくて解釈が大変ではありますが、私個人的には、対象をことばに置き換えることによって、もっとも初め(前回記事)に述べられていた「客観的事実(すなわち対象)」が、「自分」の中で扱えるようになる、それによって、客観的事実について、伝達可能であるかはともかくとして、客観的議論が可能になること及びその機能があることを述べているのだと解釈しました。
世界とことばとの緊密な関係によって、人体は、はじめて客観的議論の対象になりえた、と養老先生が記述するのはそういうことだろうと合点がいきました。
方法の限界-馬鹿の壁
ついにここで、「馬鹿の壁」が出てきます。整理すると、上記までで「見る方法」、「表現する方法」が詳細に述べられました。このどちらも「伝達する方法」に関係していることがわかります。ここで養老先生は、再度自然科学のお話に戻し、この伝達する方法の観点から「伝達可能性」について考えます。自然科学の分野がこれだけ広がり、日常的になると、科学内部の方法の問題だけではなく、対社会、すなわち情報の伝達可能性が問題になると述べます。なぜなら、ほとんどの人が理解しない科学は滅びるはずだからであると。少し長いですが、下記引用させていただきます。
自然科学を、情報の伝達という面からみれば、自然科学とは、ある特定の限定された情報群のみをあつかう作業であり、その限定条件とは、その情報が現実に対応して「検証」され(後述)、それらの情報の伝達に、本来、多義性が存在しないというものである。解釈のしようによって、どうとでも考えられる、という法律のようなものでは困る。自然科学のいわゆる客観性、つまり、いつどこでも同じ結論に達する、という性質は、一種の「強制伝達可能性」である。あるいは、自然科学とは、無限に多様な現実から、そうした部分のみを、情報として切り出してくる作業である。
養老孟司. 形を読む 生物の形態をめぐって (講談社学術文庫) (p.68). 講談社.
さて、上記の引用文も含めて、自然科学で起こる最大の問題は何かと話を進めると、じつは情報の受け手が馬鹿だったらどうするのかというものである養老先生は述べます。相手が馬鹿だと、本来伝達可能であるはずの情報が、伝達不能になる。これを、とりあえず「馬鹿の壁」と表現しよう。
これが、大ベストセラーになる前の「馬鹿の壁」の本旨です。
たとえば、そうした相手が、科学の結論を信じこんだとき、科学が宗教と同じ機能をはたす、という現象が生じる。だから、科学と宗教はときどき仲が悪いと指摘します。ここで、養老先生は、結論が導かれる過程を理解せず、一方その結論のみを信ずるという意味で、宗教の結論も、科学の結論も御託宣にほかならないと断言します。相手がほんとうに馬鹿なら、科学の結論をみちびく過程、およびその結論が伝達不能だということは、歴然としている。と。
情報伝達という面からいえば、文学は完全な伝達可能性など、問題にしない。なぜなら、客観性は要らないからであり、科学ではふつう隠されている「馬鹿の壁」が、文学ではむしろ前提としてはじめから許されていることも指摘しています。よってこの点に、文系・理系のもめごとの種があるのではないかとも指摘しています。これは私はすんなり理解できました。伝達可能性という面からみれば、文系理系の前提が違うからです。おそらく医学はこれを右往左往するのでしょう。
なお、上記引用文の中の「検証」(後述)に関しては、本書の中で、カール・ポパーの「反証可能性」をもとに説明がなされていますが、この記事では割愛します。カール・ポパーの部分も面白いのでぜひ読んでみてください。
形態とは何か
ここでは「構造の定義」を通して形態についての具体的説明がなされます。具体例として、ポール・ワイスの実験があげられています。想像し具合が悪くなる方は読むのを途中でおやめください。思考実験の例です。

ポール・ワイスは、ニワトリの胎児を菅瓶に入れ、すり潰す。そして、ニワトリ胎児を完全にすり潰せばニワトリ胎児がバラバラになった溶液を得る。さて、ここでニワトリの胎児がもっていた物質で何か失われたものはあるだろうか。失われた物質はなにもない。
さて、ニワトリ胎児を入れた菅瓶をA、ニワトリ胎児を完全にすり潰し、バラバラにした溶液の菅瓶をBとする。Aの状態からBの状態を引いたとき、何かが無くなったことは確かである。これをポール・ワイスは「有機的編成(バイオロジカルオーガニゼーション)」と定義した。この定義を養老先生は仮に「構造」と考えて論を進めます。そして、この思考実験では構造の重要な性質がはっきり示されていると述べます。それが、分子の空間配置を主とした、各構成分子間のさまざまな「関係」が、構造の基本になっていることだと述べます。
そして、もう一つ、この実験からきわめて大切なことを指示していると指摘します。つまり、ニワトリ胎児がすり潰された状態では、その「構造」のみならず、ニワトリ胎児が持っていたあらゆる「機能」が消失しているという点です。これが後の唯脳論での考え方の前提となります。ニワトリがすり潰された状態では、呼吸も循環も生殖も、機能という機能は消失しています。
構造と機能とが、現実という盾の両面であるかもしれぬことを、この実験は如実に示す。
養老孟司. 形を読む 生物の形態をめぐって (講談社学術文庫) (p.79). 講談社.
さて、もうひとつ、構造のみを保存して、機能のみを消失する実験は可能かと思考を巡らせます。すると、瞬間的に絶対零度に近い温度で対象を凍らせるとそれが可能であると言います。この実験がいまでは「急速凍結固定法」として確立されていることに付して、理想的な凍結実験は、さらに、機能は時間という要素を含むが、形態ないし構造はかならずしも時間的要素を含まない、これを示すと述べています。
ここで養老先生は自身のとる立場を述べます。機能は、形態ないし構造変化をもたらすか否かという議論が生物学者の間でも分かれているらしく、養老先生は、「機能と形態変化とは分かちがたく結合する」という立場をとっています。
すくなくとも、現在の生物学であつかわれる現象の程度では、機能と形態変化は、つねにあい伴う、と考えて大過ないはずである。約言すれば、形態学者にとって、機能とは、形態を形成する要素間の、空間的位置を代表とする、さまざまな「関係の変化」である。
養老孟司. 形を読む 生物の形態をめぐって (講談社学術文庫) (p.81). 講談社.
構造と輪
養老先生はこの著書のみならずあらゆるところで、この例を持ち出すので、この記事でも記録として記載しておきます。「構造」の特性を考えたとき、養老先生はそれは「輪」もしくは「輪廻」であるといいます。その具体像として、「クレブス回路(クエン酸回路あるいはトリカルボン酸回路)」をあげています。
これに構造上の特徴がいくつかあり、
- 絶えず回転しているにも関わらず、つねに同じ構成要素からなる
- 回路内では、同じ分子が一本道に沿って、順次変化していく
- 回路の構成要素は定まっているが、回路が回転するごとに、分子としてはかならず入れ替わる
こうした性質を考えると、生体「構造」の、類比(アナロジー)になっていると述べています。個人の発生や老化を無視すれば、生体は恒常的にとどまっており、同一人物の顔は、その構成要素は絶えず交替しているにも関わらずいつでも同じような顔である。そうした「構造」が、どのように保持されているかを、ヒトが理解できる形に出して見せるとすれば、クレブス回路のような形の説明になるだろうと述べています。そして、大切な点は、クレブス回路自体は、現実の構造ではないということだと加えています。それら、回路自体が複雑に多数からみあっており、われわれは、それよりはるかに大まかな目で、そうした状況を観察し、そこに現実のわれわれが「構造」とするものを見てとる。と述べられています。
これに類した定常状態が、分子、細胞、組織、器官といったさまざまな水準に存在する。われわれがふつうに観察し、当然と考えている個体の定常性、つまりいつ見ても同じような顔をしている、という形のうえでの定常性が、その結果生じる。しかし、実際には、その構成要素はつねに交替している。それがすなわち形態なのである。
養老孟司. 形を読む 生物の形態をめぐって (講談社学術文庫) (p.96). 講談社.
この「構造」の特性をみたときにぱっと頭に浮かんだのが鉄道でした。養老先生は「輪」だと仰るので、一般の方が輪を類比する鉄道は「山手線」かと思いますが、山手線はレールという実体の輪があるため、上記の説明からは外れそうです。そうではなく、たとえば、駅に設置されているホームドアが制御されている「システム」が、まさに上記の特性を示すかなと思いました。各列車に対しては全く同じ動作をし、しかし、各列車は絶えず入れ替わる、そして、「システム」というのはよくよく考えてみると実は実体がなく(設計者の頭の中、そのシステム利用者の頭の中にある)、実体のみを追うとそこには配線や制御盤しかなく、しかし、その中の制御回路としての動きはまったく輪として成立しています。たしかに、他人にこのシステムを説明する(ヒトが理解できる形に出して見せるとすれば)ときは、それは輪となるだろうなと感心しました。もちろん各路線ごとにホームドアは制御回路として恒常性を持っています。
今回の記事はこの辺で切りたいと思います。だんだんとまとめるのが難しくなってきました。汗
ここまで駄文をお読みいただきありがとうございます。ではまた。


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