養老孟司さんの形を読む-生物の形態をめぐって-を振り返る(1/n)

この記事では養老孟司さんの名著、唯脳論(青土社-1989年10月、ちくま学芸文庫-1998年10月8日 第一刷発行)を読み解いていく過程を、要所に引用と私なりの解釈を交えていくつかの記事に分けてブログに記録として残しておきたいと思います。あくまで唯脳論に書いてあることを個人的に解釈し、それを記録したものであり、未読者対して何かを解説するという大そうな内容ではありませんので、予めご了承いただけますと幸いです。ただし、文調自体は誰かが読んでくれているはずだということを想定してなるべく丁寧に記載しているつもりです。とくに書き留めてから公開するという手順を踏んでおりませんので、どのくらいの長さでひとつの記事を切るかは私の性格によるため長文注意です。今回は唯脳論の前提となっている著書「形を読む」を振り返りたいと思います。
※このブログ記事内での「唯脳論」は養老孟司さんが書いた唯脳論という書籍そのもの及びその中に記載されている内容を指しており、一般論的な「唯物論」「観念論」に並ぶ概念としての「唯脳論」を指していません。
バカの壁との出会い 養老孟司さんとの出会い 読書との出会い
私が養老孟司さんを知ったのは、中学生の頃になけなしのお小遣いで買った、「バカの壁(新潮新書-2003年4月10日)」が最初でした。実は、自分のお金(中学生のお小遣いを自分のお金と呼んでよいのかは知らないが)で本屋さんで本を買う経験をしたのはそれが最初でした。つまり、私の読書体験は養老孟司さんから始まったと言っても過言ではありません。もちろん学校では走れメロスほか教科書的な読み物は読みましたが、任意の本を手に取る体験を中学生でできたのは幸運でした。おそらく、この記事を私の両親が読んでも忘れているでしょうが、間違いなく最初に買ったのはバカの壁でした。その他、読みもしない「ハリーポッター賢者の石」とか買った記憶があります。その時は、本を買うことが目的になっていて、なんか本屋さんにめちゃくちゃ金色の表紙のかっこいい本があったので買った、くらいの記憶しかなくジャケ買いでした。笑 内容は一文字も覚えていません。
私は子供の頃から本が好きで、それは現代でよく語られる頭の善し悪しという文脈ではなく(読書が好きというと「頭がいいと見られたいんだろ」と、わけのわからぬことを言う人がいるので明確に否定しておきます)何か自分の知らない新しいことを知れるかもしれないワクワクする感覚そのものが好きだったのかも知れません。歯医者さんの本棚にある恐竜の図鑑とかめっちゃ好き(何故か歯医者ほか病院の本棚には必ずはらぺこ青虫もおいてある)で、おかげさまで数回虫歯になりました。後に社会人となってから、再度養老孟司さんの著書を読む機会があり、そのワクワク感を思い出しました。実はバカの壁は私が産まれる前から既に世に出ており、「形を読む(培風館-1986年10月15日)」のエッセイ的な一説「馬鹿の壁」にすぎないこと、そして、そのころからすでに、唯脳論の源流があったのだと知りました。
形を読む-生物の形態をめぐって-が非常に面白い
養老孟司さん自身が仰っていたように、唯脳論というのは「形を読む-生物の形態をめぐって」の続きとなっています。要するに、「形を読む」で語られていたことが前提となっており、さらに唯脳論の中でも、唯脳論を述べるうえでの前提は丁寧に説明されているかなと思います。さらに唯脳論の続きとして、「解剖学教室へようこそ」や「考えるヒト」があります。
養老孟司さんの本は基本的にすべて読んでいて面白いと思いますが、1980年代-1990年代に発行されたものは特に面白いです。それにも関わらずAmazonで1円で中古文庫本が売っていたりして世間一般には人気がないのかなと思います。
今回、唯脳論を読み解く過程を記録と前書きで偉そうに書いておりますが、私は唯脳論を知る前に実は順序通り、「形を読む」を読みました。それから唯脳論を知り、購入にいたりました。
さて、では「形を読む」で記されていたこととは何か。忘れないうちに振り返り記録しておきたいと思います。
自己と対象-客観主義
まず客観主義のお話が出てきます。養老孟司さん(以下、養老先生)は解剖学者であり解剖が本職なわけですが、目の前の献体は確かに客観であり現実であるが、「意味」を見出さなければただの献体にすぎず、それを自分はいったいどう考え扱うのかを考えたそうです。
けっきょく私 は、 解剖学によって「自分」を発見させてもらったのである。 解剖学が、私の修業時代に、もしいまをときめく花形の分野であれば、そもそも私は、「科学とはなにか」とか、「解剖学は何をするものか」とか、 そんな暇なことは、 考えなかったにちがいない。 むしろ、 客観的事実の山に、 まさしく埋もれたで あろう。
養老孟司. 形を読む 生物の形態をめぐって (講談社学術文庫) (p.18). 講談社.
これは注意というか、この著書にも記載されておりますが、養老先生は客観主義を否定しているわけではなく、その思わざる帰結として、科学における「自分」の隠蔽を生み出したと述べています。そして、解剖学なんて観察観察で科学ではないと周囲からは言われていたようです。
客観的事実、 つまり科学的な事実というのは、厳密に規定された条件下で、くり返しが可能なものである。観察などという、いい加減かつ適当な方法では、自然の真相には迫れない。だいたい、形態学などは、科学ではない。ものを見てブツブツ言っているだけである。生産的なことは、なにもない。
養老孟司. 形を読む 生物の形態をめぐって (講談社学術文庫) (p.19). 講談社. (実験主義者の主張として紹介されているものを引用)
このような実験科学者の主張に対して、「くり返し可能な客観的事実」とはほんとうにあるのかと思考を巡らせた過程が、「形を読む」には記されています。この養老先生脳内の実験科学者への逆襲も非常に面白いので、ぜひ読んでみていただきたいです。ただし、解剖学でも個体差ばかりを観察していては際限がないため、共通部分を抽出し、要は対象を取り換えても共通のもの、くり返されるもの、それが基本のものであるとする点においては、実験科学と解剖学は別段変わらないと述べています。そして、この「くり返し可能な客観的事実」を扱うというのは科学の定義の問題であって、養老先生はあまりこだわらなくなったと述べています。後にこの「くり返し」が本書の重要なテーマとなります。
実は、養老孟司さんの著書は多数に渡り、もはやすべてを読み切るのが大変なわけですが、養老孟司さん自身は同じことを別の切り口で、「くり返し」ていることに気付いてほしいのではないか、と私は思います。木を見て森を見ずという言葉がありますが、森が世界各地で森それ自体として内部に含む木の種、個体差を含みつつもくり返されていることと同様に、養老先生は、別の切り口で同じ世界を切り、その世界の共通性、切り口を選択するヒトの共通性をくり返し述べている、と読者の私も考えるようになりました。つまるところ、くり返しの重要性を単行本やエッセイで述べてはいるけれども、それを素直に一対一対応で受け取って単行本の内容のみを咀嚼するのではなく、共通の事項について各所各著書でくり返すことによって、実はそのくり返し自体に気が付いてほしいのではないだろうかと、私は解釈しました。この「くり返し」については後述されます。
形態学とはなにか
養老先生は、まず、科学では「自分」と「相手」が存在するという前提をおき、次にその関係について考えそれが自然科学の基礎をなしていると考えます。外界(すなわち科学の対象)が存在する。そしてそれを捉え考える自分が存在する。この両者の「対応関係」をつけること、さらに限定し、主に視覚を媒介として対応関係をつけることを形態学だと述べています。そして後に、唯脳論は基本的には形態学だと、唯脳論の中で語られることになります。実は扱っているのは形であり、すなわち、形式のことであるというのは、唯脳論読者であれば聞きなれた、または、読み慣れたものかと存じます。
形態学とは、感覚、なかでもおもに、視覚を媒介として、外界つまり対象と、自分の脳つまり自分との間に、ある「対応関係」をつけることである。
養老孟司. 形を読む 生物の形態をめぐって (講談社学術文庫) (p.26). 講談社.
そして、例えばコウモリやクジラは主に聴覚系によって、トガリネズミなどの食虫類はおそらくヒゲを媒介にした触覚系も加えて、ヒトは視覚系によって、空間的に外界を捉えそれぞれの脳に投影しているはずであり、我々ヒトが脳の中に投影する空間の像と、その他の動物の脳に投影された空間の像はそれぞれ脳の解釈によって異なって写るものの、それらは結局同じ外界の像であり、それなりの共通性をもっているだろうと指摘します。同時に、数億年以上の歴史が作り上げてきた神経系を、その投影された空間像は共有しているに違いないと断言しています。
たとえ話として、私は「世界まる見え」というテレビ番組が好きで好んで見ていましたが、スキューバダイビングの映像でタコがヒトに対して墨を発して逃げる映像を見たとき、「なぜタコは墨を発すれば人間ほか外敵の視界を無効化できることを知っているのか」と思ったりしました。これはタコに見えている世界と、ヒトに見えている世界が同じだとという前提を置かなかければならないのではとか妄想していました。養老先生は、このような別々の個体・種の脳に投影された外界自体は結局は同じものなのだから、それを捉える形式には何らかの共通性があるはずだということを述べているのだと私は解釈しました。ただし、数億年分の歴史が作り上げてきた神経系は、投影された空間像と何かしら共有しているだろうという果てしない時間軸を考える視点は読書前の私にはなく、新たな発見でした。養老先生はそんな妄想を本にしてくれているんだなぁと、うれしい気持ちになるのも養老先生の本を好んで読んでいる理由でもあります。
解剖学は、いわば、動物が自分の居住する空間を、脳にある形で投影するように、人体や動物の構造や形を、われわれの脳に投影することによって、脳に、あるまとまった、そういうものの「像」を作りあげるものである。だから、それは、ちょうどコウモリの世界が聴覚的特徴をもち、トガリネズミの世界が、おそらくは触覚的特徴をもつように、ある種の視覚的特徴をもつだろう、と予測できる。そのようにして脳に投影された「形」を、 われわれは吟味し、比較し、その世界のある全体像を作りあげようと努力する。
養老孟司. 形を読む 生物の形態をめぐって (講談社学術文庫) (p.28). 講談社.
ここでヒトが行う形態学は、視覚的特徴を持つだろうと予測できることが述べられています。そしてこの後述として、脳自身は数億年以上の歴史のあいだ、外界すなわち「客観」と関係してきたという事実があることを主張しています。そして歴史の上に乗っているものは解剖学であれ、科学であれ、文学であれ、哲学であれ、けっして互いに無関係ではなく、その成立の背後にはもっとも一般的な「共通性」があるはずだと断言されています。
ここで、本書内の画像までは著作権等の関係で掲載できませんが、本書には「霊長類の脳におけるパタン」という画像が掲載されており、脳の溝の間の部分(しわの溝の間の部分)である「脳回」のパタンが、ヒトほか、チンパンジー、オラウータンその他霊長類で似たパタンを示していることの例示がなされ、これらが互いに無関係とはいえないと述べられています。
実は、唯脳論には「素人でもゴリラとヒトの脳は判別できる。しかし、それだけとも言える。その差違と類似を説明する。」という文脈で、ヒトの脳とゴリラの脳の画像が掲載してあるのですが、「形を読む」を読んでいないと、脳回のパタンの類似は見逃してしまいそうな気がします。
形をあつかう
養老先生は化学を例に、一般には同じ「自然科学」と考えられるものでも、大きな違いがあることを述べています。ここで、少々長くなりますが、この本の主題として、形のあつかいは重要だと思われるため、養老先生の掲載する例を交えつつ記載します。
養老先生はまず、水分子を例にあげます。
水分子がある。さて、観察対象は人体である。対して、水分子の大きさは約2オングストロームである。この水分子が紙面で視認可能な大きさまで拡大(本書では20ミリ)したとき、観察対象の人体はと言えば、身長一・五メートルの人であれば、30万キロメートルになる。これは地球7周半に相当する。分子は目には見えない(最近では見えるらしいが…)。したがって、ここで養老先生は、化学者は物を扱っているというものの、目に見えないものの存在を決めるのは人間の論理であり、化学者が扱っているのは、実は論理ではないかと指摘します。化学はまったく論理的にできており、もし論理が存在しないならば、目に見えないものがなぜ図に描けるのか。と。
つまり、化学では、はじめに論理が存在する。論理によって、分子という対象が存在するようになる。しかし、形態学では、はじめに対象が存在する。論理はむしろ、対象をめぐって揺れ動く。すなわち、ここでは、 対象は同時に前提である。
養老孟司. 形を読む 生物の形態をめぐって (講談社学術文庫) (p.35). 講談社.
ここでさらに話が進みます。私なりに文章を短くまとています。それでもちょっと長いですが。
発生には「誘導」という現象があり、ある器官が発生するとき、その器官のもとになる「原基」に、隣接組織が影響を及ぼし、その原基を誘導し、器官への分化を決定させる。これを引き起こす物質を誘導物質という。ある誘導系で、誘導物質を化学的に分離し、器官原基に与えると、その器官を生じさせることがわかったとする。その物質が蛋白であったとする。その蛋白を徹底的に研究する。その蛋白の分子含め、立体構造まできわめてはっきり知ることができた。ここで元の誘導系に戻る。器官原基はまだ何も調べていないから元の誘導系と変わらない。しかし、違う。
養老先生はここで、器官原基も誘導物質もはじめは同じくらいその姿がボケていたが、誘導物質に関して明瞭にしてみると、その分だけ同様に器官原基の姿がボケる、最初のどちらも扱っていなかったときに比較して、著しく器官原基の姿がボケていると述べています。そして、誘導物質は原基のどこに働くか、おそらく原基を構成する細胞の表面膜に存在する、特異な受容体と結合することになり、すると受容体構造も同様に決定しなければならなくなると指摘します。要点は、誘導物質の分子構造を決定した精度で、原基を構成する一連の細胞の、構造決定の必要性が生じたことが問題だと述べています。ここで上記の水分子の例を思い出すように考えてみると、養老先生が述べていることがよく理解できます。誘導物質の分子レベルで器官原基を見ると、「何も手を加えていないにも関わらず」器官原基の姿がボケていることがわかるかと思います。
私は誘導物質の構造を詳しく知ったが、その知識は、器官原基の方にとっては-なにも手を加えなかったにもかかわらず-おびただしい「知識の欠陥」を、生ぜしめることになった。そう考えると、人間の知識の進歩というのは、不思議なものである。あることが精細に判明するということは、いやおうなく、それに関連した他のことがらが、その分だけわからなくなることでもある。
養老孟司. 形を読む 生物の形態をめぐって (講談社学術文庫) (p.36). 講談社.
さらに話を進め、「対応関係」について養老先生は述べます。上記の問題は自然科学における「対応関係」の重要性を示すと述べています。分子が作用する相手は、分子、または、少なくとも分子系でなければならなない。分子と細胞では水準が違い、細胞は分子と比較して高次の水準にあるため、それを一緒に語ると、矛盾や逆説を生じるだろうと述べています。よって、問題は「なになに学」にあるのではなく、その当面の問題の要素がすべて同水準か否かだと主張しています。
分子生物学→要素の対応関係が明瞭だった
分子遺伝学→DNA分子を構成する塩基の三つ組みと、一つのアミノ酸との対応関係で進んできた
免疫学→抗原と抗体とが一対一に特異的に対応する
一方の形態学では、
形態学→たった一つの対応関係などを基礎においても、解剖学は進められない、例えば眼をとりあげると、ヒトの眼とブタの眼は対応しているとしても、ヒトの眼とタコの眼、タコの眼とトンボの眼は対応しているか。アワビの眼はどうか、アワビに眼はあるのか。このように、形態学でも対応関係を扱うが、対応関係自体が解剖学の主題になってしまい、上記に記載した他の学問と比較しても違いがあることを述べています。それが同じ生物学の括りの中にあっても、違いがあることがわかります。
しかし、分子遺伝学と免疫学は矛盾なく結合できるだろうとも述べています(もちろん水準が同じだからです)。
ここが養老先生の著書のおもしろいところだと個人的には思いますが、上記の例や説明だけを見ると一見訳のわからぬ具体例なのですが(具体例自体は理解ができるが、なぜそれを列挙しているのかが先には見えない)、この本を読んでも養老先生は「その共通項は何か」ということを常に考えているように思いました。養老先生の著書を読んでの感想や解説を読んだり見たりしたことがありますが、「方法論」の本であると言われるのはこの辺りの考え方にあるかなと思いました。
では、それらの多様な「科学」を、統一するものは何か。心配しなくても、事実上、それらは統一されている。いずれも、現実には、ヒトが「理性的に」考えることに、ほかならないからである。別な表現をすれば、ヒトの脳の機能、あるいは精神のはたらき、にほかならない。
こうしたすべての学問は、大きくても、一・五 キロほどの脳が果たす機能の中に、含まれてしまう。そう考えれば、解剖学そのものも、解剖学について考えることも、化学も、数学も、じつはヒトの脳の機能の実現であり、それはおそらく、なにかの形で、脳の構造との対応を示しているにちがいないのである。
養老孟司. 形を読む 生物の形態をめぐって (講談社学術文庫) (pp.40-41). 講談社.
ここまでで、一旦ブログ記事を切ろうと思います。このペースだとこの記事を含めて3記事くらいになってしまいそうなほどです。もう少し簡潔に短く、書評的にまとめられる能力があればよいのですが、今のところその能力は皆無のようです。ここまでお読みいただきありがとうございます。ではまた。


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